『Dazed & Confused Japan』掲載 (2004)
取材・文:内田伸一
1966年、イギリス、ルートン生まれ。グラフィック・デザイナー。フォント、エディトリアル、企業CIプロジェクト、テレビCMなど、広域かつ旺盛なデザイン表現を行う。現代美術家、ダミアン・ハーストの作品集デザイン、デヴィッド・ボウイのアルバムジャケットなどでも広く知られる。一方で、広告に疑義を呈する組織「Adbusters」への参加や、メッセージ性の強い個展を行うなど、表現者個人としての理念をより強く打ち出した活動も行う。
http://www.barnbrook.net/
挑発するグラフィックデザイナー、ジョナサン・バーンブルック。若くしてロンドンで伝説的な仕事を残し、アーティストや大企業とのコラボレーションも数多く手掛けてきた男。新作を含む展覧会をソウルで行うと聞き、彼がそこで個人としての社会的・政治的側面を打ち出すことはすぐ想像ができた。そこには“Graphic Agitation(グラフィックの煽動)”と書いてあったから。
100年後の歴史の教科書を読むことができたとしよう。とりあえず“21世紀初頭のグローバリゼーション”のページをめくってみる。おそらく、自信満々の米国大統領の顔写真は絶対載っているはず。また、そのキュートな耳に“嘘つき”の罵声をさんざん浴びせられた英国首相も、穴ぐらでみつかった元独裁者も、そして人民服に身を包む将軍も(日本の首相がどこにいるかは、いささか心もとないけれど)。
そして、その時代に“グローバリゼーション”と辞書で引けば、反対語として“⇔話せばわかる”と書いてあるかもしれない。誰もが話し合うことに疲れてしまったのか? あるいは、毎日なだれ込んでくる情報に人々は消化不良を起こしてしまったのか。それでも、ジョナサン・バーンブルックは“挑発すること”をやめない。グラフィックデザイナーという仕事を選び、華々しい大企業との仕事でも知られる彼だが、本人は単なる企業メッセージの伝言役に甘んじることを拒否してきた。
ロンドンで「バーンブルック・デザイン」を率いて活動する彼の個展『Tomorrow's Truth - The Graphic Agitation of Jonathan Barnbrook』が、4月からソウルで開催されることになった。今回は非商業的な作品のみで構成され、そのテーマは“北朝鮮”“9月11日”“第一次/第二次イラク戦争”、そして“企業の権力とブランドの意味”。それこそ学校の教科書に並びそうなお題ばかりだ。しかし、ジョナサンの場合、言いたいことはグラフィックで表現するから居眠りとは無縁だし、さらに言えば彼のメッセージには暗記すべき回答は用意されていない。
某国の怪しいプロパガンダに使われそうな絵画に添えられた『Spot the difference(間違い探し)』の文字。そして、かのテロリストそっくりの人物がお馴染みのコスチューム(ただし彼自身の、ではなく)に身を包んだ『ロサマ・マクラディン』。観る者はそこにどんな意味を読み取るだろうか? 少なくとも、彼が単なる悪ノリでこうした作品を発表したとは思えない。
「今回のソウルでの展示は、僕がここ何年か自分の作品を通して行ってきた試みの一部。クライアントの依頼ではなく、完全に僕自身の中から生まれた作品を発表する機会が最近どんどん増えているね。このことは、僕自身が作品を使ってメッセージを発する行為に自信を得たことが大きく関係していると思う。以前は僕も、こういうものを形にするのはとても難しいと感じていた。でも今は広告やデザインの手法を上手く利用して、みんなを引き付け、自分が本当に問題にしたいことを語るやり方を手に入れたと思うんだ」
「この個展は、昨年東京の『gallery ROCKET』で開催した個展をさらに発展させたものだと言える。ソウルという場所も非常に重要だ。自分が生きる時代の政治にもすごく関心があるから、北朝鮮のことも作品を通して自分なりに多く扱ってきた。とてもセンシティブなテーマだし、韓国や日本の人々にとっては特にそうだということもわかっている。そのうえで、1人の“アウトサイダー”からの視点を提示したいんだ。それは韓国の人々の考えとはまた少し異なるだろう。でももしかしたら、この北朝鮮の状況について彼らが別の見方で考えるきっかけになるかもしれない」
ジョナサンの特異性は、これらの過激な問題提起をしてきた彼が、いわゆる商業デザイナーとしても華々しいキャリアを維持していることだろう。例えば今、日本において彼を紹介する最も手っ取り早い説明は「あの六本木ヒルズのロゴマークをデザインした人」というものだ。もう少しさかのぼれば「BEAMSと“VIRUS FORUM BEAMS”を仕掛けた人」とか、音楽好きなら「デヴィッド・ボウイ」の“Heathen”のアートディレクター」、アート好きなら「ダミアン・ハーストのトンデモ本(もとい名著)のデザイナー」。グラフィックデザイナーなら誰でも、彼の作り上げたフォントは知っているだろう。挙げていけばきりがない。
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しかし彼は、自分がいわゆる“請け負いデザイン”を無節操に引き受ける男ではないことも様々なシーンで告白してきた。もちろん、その表明自体もグラフィックデザインを使って。有名ブランドのロゴマークを素材に商業主義を痛烈に批判する作品群などは、その典型的な一例だろう。しかし、個人的な作品とビジネスマーケットで機能するデザイン、彼はその両者をまったくの別物として捉えているわけでもないようだ。
「僕自身は、自分を”コミュニケイター”だと考えている。その点では、企業やブランドのためのデザインだろうが、アートギャラリーで展示される作品だろうが一緒なんだ。つまり僕はどんな場合でも、必要なメッセージを可能な限り効果的なやり方で伝えるし、それを目指している。ただ、今言ったような2つの世界は僕の中で互いに関わり合っているのも事実だ。自分の目から見てモラルのない人々(従業員を奴隷のように扱ういくつかの国際的大企業とか)とは一緒に仕事をしないよう、注意深くありたいと思う。
とにかく金のため、という仕事も絶対にしない。デザイナーとしてそれを選ぶのは、最も退屈なことだから。もちろん、“モラル”というのはとても難しい部分があって、実際に誰かと一緒に仕事をする時は、直感的な何かに基づいていることも多い。あと、大企業と仕事をする時は、あえてその世界では”正しくない”やり方についても考えてみるようにしている。例えば六本木ヒルズのロゴは、一種類だけじゃないんだよ。よくある融通の利かない画一的な企業とは違う部分を感じて欲しかったからなんだ」
彼のデザインにおいて、こうしたコンセプチュアルな面が高い評価を得ているのは確かだろう。一方でその批評的な作品においては、広告やブランド戦略における表現効果を逆手に取ったようなものも多い。いかに人々の目を引くか、いかに見る者へと強い強い印象を植え付けるか、その才能を自分自身の意見表明に使っていけない理由があるだろうか? そう問いかけているようでもある。
矢印や独特の字体を多様したいくつかの作品は、広告というより政治の世界でしばしば用いられるプロパガンダ・ポスターを連想させる。ジョナサン・バーンブルックは、煽動するグラフィックデザイナーなのか? それとも「アジテート」「プロパガンダ」という概念そのものが、作品の素材と見るべきなのか?
「考えるに、僕はそれぞれの問題について、人々が”忘れてしまう”ことを望んでいないんだ。あるいは疑う余地のない間違いの数々を人々に知らせたいと思っている。その意味でなら、僕はアジテーターだ。でもこの言葉は僕にとって少しヒロイック過ぎる響きだね。僕がやっていることには少しも英雄的なところなどない。問題を忘れてしまったり、間違っていることを知らないで困るのは僕ではなくて、他の人々なんだ。
グラフィックデザインは多くの人々とコミュニケートするうえで、非常に効果的なものを持っている。言葉で多くを語らずに表現することができるからね。僕がプロパガンダやアジテーションにおいて確立されてきた方法論を使うのは、それが見る人の関心を引くのにとても効果的だから。すべての独裁主義や企業体も、僕らをコントロールしたり、彼らのメッセージを信じ込ませるためにこうしたやり方を使うものだよ」
ところで、独裁主義や企業のブランド戦略にはあまり(というかほとんど)見つけることができないものも、ジョナサンの作品にはある。彼の想像力は、常にどこかユーモアを伴った形で発揮されるのだ。ブッシュやブレアのポートレートを使った作品は、ほんのちょっとした画像操作(鼻先にバーコードでヒゲを描くだけ!)だが、それで彼の意見表明はほぼ達成されている。シビアなテーマを扱う作品において、こうしたユーモアの役割をどう考えているのか聞いてみた。
「そこを突いてきてくれるのはとてもうれしいよ。僕はコメディの大ファンでもある。若い頃に観たモンティ・パイソンなんかは、伝統に囚われた生活の馬鹿馬鹿しさを気付かせてくれた。もちろん、僕の作品は彼らのものとは似つかないだろう。だけど、極めてヘヴィで避けられがちな話題を話し合う時、それをいくらかやり易くしてくれるのがユーモアだと思う。あと、皮肉というのもすごく重要かつ強力な要素だね。イギリスでは数百年に渡って、政治家たちの行いを皮肉まじりに問いただすという伝統がある」
「でもわかってほしいのは、単純におもしろがっているわけじゃないってこと。この世界には、僕としても支持したい強い信念を持った人々がいる。だけど、彼らの多くは自分たちと意見を異にする人々を憎むばかりで、同じ人間への愛情を示しているようには見えない。そうはなりたくないんだ。僕がすばらしいと思う人物としては、もちろんネルソン・マンデラがいる。また、政治的ではなく宗教的な指導者ではあるけれど、ダライ・ラマもそう。多くの宗教的指導者がしかめっ面で愛を説くのに対し、彼は常に笑い、微笑んでいる。歴史を通して見れば、ガンジーが最も良い例だろう。彼はすべての人々に敬意を持って接し、いかに笑うかを知っていた。そして、非暴力で世界を変えようとしたんだ」
“Tomorrow's Truth”。100年後の歴史書には、やっぱり今すでに想像がつくようなことしか載っていないのだろうか。あるいはもっと酷いことに? それとも、もう少し希望の持てる何かがこれからの数十年で起こることを期待していいのだろうか。いずれにせよ、ひとつ確実だと思えることがある。周りにいろいろ言われようが(逆に何も言われなくなっても)、ジョナサン・バーンブルックは彼の言う”コミュニケーター”として、とにかく人々をアジテートし続けているだろうということだ。
彼の行いを一種の売名行為と取る人もいるだろう。それで何が変わるのか、という人も。でも、彼がコミュニケーションの相手として望んでいるのは、悪徳企業や権威主義より、むしろそういう人々なのかもしれない。彼は、考えること、忘れないことを求めているのだ。
「個展のタイトルは、“Today's heresies are tomorrow's truths.”(今日の異論は明日の真実)という言葉からとったものだ。ある人々が今求めている社会的権利は、政府や権威ある人々からは言語道断だとされている。でも、それがいつか当たり前のこととして認められる場合もある。努力の末にね。例えば、女性の選挙投票権というのは前世紀の変わり目に初めて提案された。当初はあり得ない考えだったようだけど、今では多くの国でこれが常識になっている。肌の色で社会的地位を決めるべきでないという考えについても、同じことが言えるだろう」
「今度の個展では、世界の社会的・政治的状況について、根本的に間違っているとしか思えない事柄を多く取り上げる。でもだからこそ、タイトルには前向きな言葉を選びたかったんだ。こう言いたいんだよ。“これが今の現実だ、でもまだ変わる可能性はあるし、間違った物事も未来には正されるだろう”ってね」
※『Tomorrow's Truth - The Graphic Agitation of Jonathan Barnbrook』展は、2004年4月16日から5月4日まで、ソウル・アートセンター ハンガラムアートギャラリーにて開催された。